風邪っぴきのわがまま
こんばんは。寒暖差にやられ、すっかり風邪をひいてしまいました……咳の合間に鼻水と痰をせっせと生成しています。週末で治しきれればいいのですが。
今日は友人の通う都内の大学にお邪魔してきました。インカレのサークルを見学させてもらったのですが、とても面白かったです。友人も生き生きとしていて、良いところに来られたんだなあと嬉しくなりました。インカレというだけで拒否反応を示す方も多い(僕もそうでした)と思いますが、やはり実際に自分の目で見て判断した方が良いでしょう。自分の好きなことに全力で打ち込める環境を見つける上で、妥協するべきではありません。
何を書こうか10分ほど悩んでみましたが、すみません、今の僕には長い文章を書く力が残っていません…いずれちゃんとした記事を上げ直すので、今日はここまでとさせてください。
おやすみなさい。また次回!
渡る世間に
よく晴れて気持ちのいい日ですね。半袖とカーディガンの組み合わせが快適な気温です。よきよき。
では、挨拶もそこそこに本題へ。
このエントリは割と素直に書けていて、少しだけ気に入っています。今回は、ここで言及した「本来の自分を取り戻す」について掘り下げてみたいと思います。
私たちには、これまでの社会生活を通じて得た自己像、つまり「自分はどんな人間か」というイメージがあります。
このイメージは極めてデリケートなものですが、言語化しづらい(できない)上に主観的評価だけでは不安ですから客観的評価の誘惑が強くなります。それは世間に膨大な数の性格診断が溢れていることや、Twitterで 「#いいねした人にどう思ってるか正直に言う」「 #いいねした人が1冊の本だとしたら最初の1行には何と書いてあるか考える」といったタグが人気を博すことからも言えるでしょう。
本来これを言語化する必要は全くない(むしろ言葉にすることで呪いともなりかねない)のですが、やはりアイデンティティを確立したい、誰かに自分を理解してもらいたいという気持ちは人間の自然な欲求なのだと思います。
とはいえ、"自分らしく"振る舞える環境は(少なくとも日本では)限られています。会社で、家で、学校で、公共交通機関で、親友と、先輩と、教授と、初対面の人と etc. 場面を構成する様々な要素によって言動は制限を受けます。公私区分とも似ていますが、ニュアンスは異なる気がしますね。
その中で、腹を割って話せる友人というのは本当に得難いものです。彼らとの会話では(ちょっと逆説的ですが)制限さえも遊び道具となります。
つまり、僕の言う「本来の自分」とは「自由で幸福なコミュニケーションの中で立ち現れる自己像」のことです。そしてこのコミュニケーションこそが密会であり、ランデブーであり、デートなのです。
様々な環境に応じて異なる役割を演じることは、人が人らしく生きる上で不可欠です。「お前はあそこではこう言っていたが、ここではこんなことをやっているじゃないか」と一々言挙げされていては、人生はままなりませんよね。例えば、ある父親が家庭では子供に「大声で叫んではいけないよ」と言いながら、運動会で「〇〇頑張れーーー!!」と叫んだ場合、その妻が「あなたは言行一致という言葉を知らないのか」と指摘したとしても(冗談としてはアリかもしれませんが)まともに取り合われることは無いでしょう。
多様な自己像をコントロールし、自己の生き方を裁くのは本人でなければなりません。そして、異なる社会的文脈の自己像を遮断することはプライバシー権の重要な機能の一つです。(棟居快行『人権論の新構成』)
…プライバシーについては記事を改めさせてください。
まとめに入りましょう。
身勝手な考えに見えます(僕もそう思います)が、複雑化した社会で適切に人間関係を営んでいくためには、多様な自己像の使い分けが必要です。その過程ですり減りった本来の自分を取り戻してくれるのは、信頼できる友人とのコミュニーケーション…もっと言ってしまえば実存的な愛の交わりに他ならないのです。
掘り下げというより焼き直しみたいになってしまいましたが、それだけ思いが強いということで一つご勘弁ください。
ここまで読んでいただきありがとうございました。また次回!
乳と蜜
おはようございます。東京は雨です。(意味論的にはわかり易くて面白い例えですね、東京は雨ではないですから)
バスも電車も混雑しています…久々にバスの満員通過を見ました。混雑は遅れを招き、遅れは乗客を苛立たせ、焦りは伝染し…と良いことないですね。のんびり賢く行きましょう。
何を書こうか迷っていたら、アーモンド効果の広告のキャッチコピー「これからのミルクを、どうぞ」が目に止まりました。美味しくなさそう。というわけで今日はミルクの話。
あなたはミルクに対してどんな印象を持っていますか?(ここではミルクと牛乳は同じものとして扱います)
一般にありそうなイメージを連々言ってみると…美味しい、不味い、独特な味わい、滑らか、口中がネバつく、白い、カルシウムが豊富、栄養食…等でしょうか。
メソポタミア文明の昔から、家畜の乳は良質なタンパク源として人類の食生活を支えてきました。また、古代ギリシャ・ローマではバターやヨーグルトは薬として重用されていたそうです。現在では、普通に飲むだけでなく料理や菓子の材料としても幅広く使われていますね。
先程挙げた「カルシウムが豊富」ということは小学校などの栄養学でよく言われることですが、定量的にはどうなのでしょう?Jミルクさんに聞いてみると…
カルシウムは食べた量のすべてがカラダに吸収されるわけではなく、吸収率は食品によって異なります。カルシウムが豊富だといわれている食品の吸収率は、おおよそで牛乳は40%、小魚は33%、野菜類は19%です。
牛乳のカルシウム吸収率が高いのは、牛乳自身に含まれる乳糖やカゼイン・ホスホ・ペプチド(CPP、カゼインが消化される過程でつくられる)などがカラダのなかでカルシウムの利用率を高めるからです。
とのことです。優秀。
なお、カルシウムは18〜29歳の男性なら800mg/日、女性なら650mg/日の摂取が推奨されています。
もうお分かりのことと思いますが、僕は牛乳大好きです。冷蔵庫には常時3本ほど確保しておき、最低でも1日300mL、多いときは1.5Lほど飲みます。それを揶揄して、母からは「ミルク飲み人形」と呼ばれていますが…
僕自身にもなぜ好きなのかはよくわかりませんが、水より牛乳の方が好きです。(ちょっと異常な気もします)
映画「時計じかけのオレンジ」などでよく表されるように、ミルクは母乳や白色との関連から母性、幼児性、豊かさ、純潔の象徴とされます。きっと、僕の心の白さは牛乳によって保たれているのでしょう。(この意味は「時計じかけのオレンジ」あらすじを参照して下さい↓)
自分のジョークを自分で解説するようになったら人間おしまいですね…今回はここまでにしましょう。
では、また次回!
(本当に)やさしい物理学
おはようございます。ようやく暖かくなったかと思っていましたが、ここ数日は冷たい風の吹く日が続きます。風邪などひかないよう気をつけてくださいね。
今日は、物理についてゆるゆると書いていきましょう。
始めにおことわりしておくと、僕は物理を専門的に勉強したことのないド素人です。物理学の本もブルーバックスとその他細々したものしか読んだことが無いのですが、僕が感じた物理学の美しさを少しでも伝えられたらと思います。見当違いなことをどやどやと言うかもしれません。もし目に余る間違い等ありましたら、コメントやDMでお叱りいただければ幸いです。
一般相対性理論の発想
初っ端からテーマが重すぎる感が否めませんが、実は一般相対性理論の基本概念はびっくりするほどシンプルです。
ニュートンは、物体がなぜ落下するのかを説明しようと試みました。リンゴの逸話でも有名ですね。彼はすべての物体には互いに引き合う何らかの力があると仮定し、それを「引力」と名付けました。ですが、この力が離れたもの同士の間でどのように作用するのか、彼は解明することができませんでした。また、ニュートンは空間を空っぽの巨大な「入れもの」と捉えていましたが、その「入れもの」が何でできているのかは、やはり分からないままでした。
ところが、アインシュタインの生まれる数年前。イギリスの偉大な科学者ファラデーとマクスウェルによって、ニュートンの考えた空っぽの「入れもの」に「電磁場」という概念が持ち込まれました。電磁場は広がりを持ち、電磁波となって空間を満たしていて、この波が電気エネルギーを"運ぶ"と考えられたのです。(用語が曖昧かも知れません、許して下さい以下略)
アルベルト・アインシュタインの父親、ヘルマン・アインシュタインは電気機器の製造会社を経営していました。その影響で幼い頃から電磁気学と接していたアルベルトは、大学での研究中、電気と同じように重力も場/波によって運ばれるのではないかとひらめいたのです。とすれば、電磁場と同様、重力場というものも存在するはずであると考えた彼は、重力場の構造を求める方程式を導出しました。
ここまででも十分に画期的ですが、やがて彼は一つの革新的なアイディアにたどり着きます。それこそが一般相対性理論の核となる思想。重力場は「入れもの」(=空間)の中にひろがるものではなく、重力場こそが空間そのものであるという考えです。
科学において、それまでは空間と物質とは異なるものだと考えられていました。しかし、そうではなく、空間も物質的な要素の一つなのだということです。空間は巨大な硬い容器ではなく、途方もなく大きく柔らかな「場」なのです。
この天才的なアイディアによって、私たちは極めてシンプルに世界を捉えることができるようになりました。
例えば、太陽ほどの大きな質量を持つ存在は、周囲の空間を大きく歪めます。ですから、地球は引力に引っ張られて太陽のまわりを公転するのではなく、歪んだ空間をただ真っ直ぐに進んでいるだけなのです。
http://www.ils.uec.ac.jp/~musha/research.html
そういえば、青少年宇宙科学館にそんな遊具がありましたね。あれは探査機のスイングバイでしたが、イメージとしては手頃でしょう。
http://www.kagakukan.urawa.saitama.jp/tnj02.html
ロシアの物理学者レフ・ランダウは、一般相対性理論を「現存する物理学の理論の中でもっとも美しい理論」と評しました。
私たちにもこの理論の美しさの全てを理解できたら、どれだけ楽しいでしょう?また、そこからはどんな世界が見えるのでしょう?
冒頭の予告通りかなりゆるふわしたエントリになってしまいましたが、いかがでしたか?断定多めで脳内お花畑の趣がありますね。
気が向いたら(または評判が良ければ)また書きたいと思います。
では、また次回!
普通の世界(1)
月曜日です。元気ですか。
やるべきことの数が無限大に発散していたり、新歓で朝まで飲んでいたり、サークルが決まらなかったりと、それぞれに大変な一週間を乗り越えてきたのでしょう。疲れの取れぬまま新たな一週間に突入するかもしれませんが、睡眠と食事だけは忘れないでください。あなたにはお布団とご飯がついています。
この2週間(長い!)を乗り越えればゴールデンウィークですから、共に生き抜きましょう。愚痴や悩みはlineで聞きます。
リフレッシュできるような記事にしようと思いキーを叩き始めましたが、そもそもそんな文章力が無いことに気づきました。つらい。むしろ読んだら疲れそうな仕上がりになってしまったので、心に余裕のある時に流し読みしていただければと思います。
では、早速ですが質問を。
あなたは普通(ノーマル)ですか?
あるいは、異常者(アブノーマル)ですか?
難しい質問です。曖昧で無価値な質問として退けることもできるでしょう。ここで正面から立ち向かいたいのは山々ですが、残念ながら僕にはその能力も知識もありません。
ですから、今回は「普通」についての色々な思想を紹介したいと思います。普通とは何なのか、あなたの考えを進める助けになれば幸いです。
普通 normalという語は、ラテン語のnorma(基準)に由来します。確かに、ある事象について判断するとき、一つの正しい基準(ものさし)があれば、その事象が普通かどうか決められます。しかし、その基準が「正しい」ことは一体どこの誰が保証してくれるのでしょう?
まず思いつくことは、その基準が人間の本質に根ざしたものだからということです。「全裸で街中を走り回ってはいけない」のも「人を殺してはいけない」のも、それが人間にとって自然だから、という考えですね。この考え方の下では、人間にとって自然なものが正常とされ、規範となり、そこから逸脱すれば即座に異常者の烙印を押されることになります。
でも、たとえばごく最近まで(一部の人は今でも)人種差別は「自然な」考えとされてきましたし、戦時には敵対国の兵士を殺害することも「自然な」選択となりえます。ですから、基準を人間の本質に求める考えは明らかに無理筋です。その時々によって変化するようなものが人間の本質であるはずがありませんからね。人間にとって「火が燃えるように自然な」(アリストテレス)基準などというものは存在しないのです。
すると、基準/規範をひとつの制度として捉える考えが出てきます。法律が人為的で不自然なものであるように、基準も人がつくったものだと言うのです。では、その基準はどのように作られるのでしょう?
社会学者のデュルケームは、社会の慣習について統計的に調べ、その中でマジョリティーとなる営みが正常で、マイノリティーが異常だと捉えられると考えました。人間の本質ではなく、数字の多数性を拠り所とする科学的な考え方ですね。(デュルケームは、未熟だった社会学を新しい科学として確立させようとした人です)
補足のため、少しWikipediaの助けを借りましょう。
デュルケームが社会学独自の対象とした「社会的事実」とは、個人の外にあって個人の行動や考え方を拘束する、集団あるいは全体社会に共有された行動・思考の様式のことであり、「集合表象」(直訳だと集合意識)とも呼ばれている。つまり人間の行動や思考は、個人を超越した集団や社会のしきたり、慣習などによって支配されるということである(たとえば、初対面の人に挨拶をすること、うそをつくのは悪いことだと考えることなどは、社会における一般的な行動・思考のパターンとして個人の意識の中に定着したものである)。
つまり、基準は社会の内部から生まれて、私たちを支配するのだということです。安直かもしれませんが、ちょっと荀子と似た部分を感じます。
また、デュルケームは著書「正常現象としての犯罪」の中で「あらゆる社会のうちに心理学的に異常な個人が存在することが社会的には正常なのである」という結論を出しています。逆説的ですが、一面の真理を言い当てているでしょう。星新一のショートショートにそんな話が出てきた覚えがありますが、題名を忘れてしまいました…
ただし、社会から自然発生する基準という考えには弱点があります。正当性です。この基準は、あくまで「事実である」ということしか持ち合わせていません。たとえそれがマジョリティーだとしても、全員が従わなければならない理由にはなりません。
これをちょっと広げると「なぜ法に従わなければならないのか」という問題になりますが、それについてはまた記事を改めさせてください。
このエントリで書ききるつもりだったのですが、思いの外長くなってしまいました。2000文字超。(そんなに長くも無いな…)
というわけで、続きます。シリーズと後回しにした話題の数が多すぎる気もしますが、地道に消化して行くつもりです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。また次回!
傘と貴方と雨の中
雨ですね。季節の変わり目は憂鬱になりがちです。
実際、季節の変わり目にはうつ状態になる人が増えることがわかっています。うつ病のサブタイプの一つ、季節性情動障害(Seasonal Affective Disorder)略称SADです。キャッチーで覚えやすいですね。
雨音はショパンの調べと歌った歌手もおりましたが、雨の音に耳を澄ませてノスタルジアに感じ入るも良し、「雨に唄えば」を口遊みながら部屋で踊ってみるも良し。せっかくの雨の日、楽しんでいきましょう。
ジーン・ケリーいいなぁ…
GLEE版も嫌いではないですが、個人的には本家の方が好き。
今日は「普通って何だろう?」という普通のテーマを、普通より掘り下げて書くという普通の記事にしようかと思っていたのですが、気が変わりました。
ということで、今日は「雨に唄えば」について。こういうものは流れに乗って書いてしまった方がよくなる気がします。
映画「雨に唄えば(SINGIN' IN THE RAIN)」は、1952年に公開されたアメリカのミュージカル映画です。冒頭に貼った、ジーン・ケリーが雨の中で歌い踊るシーンはあまりにも有名ですね。
あらすじをミュージカルから引用させて頂くと
映画スターのドン・ロックウッドと大女優のリナ・ラモントはスター同士のカップルと世間でもてはやされていた。しかし実際はリナが一方的にドンを追いかけているだけで、美人だけれども演技は下手、しかもわがままで思いこみの激しいリナにドンはむしろうんざりしていたのだった。そんな折、ドンはパーティに行く道すがら、駆け出しの女優キャシーと出会い、恋仲に。
やがてハリウッドにはトーキー映画の波が押し寄せ、ドンとリナの新作サイレント映画も急遽トーキーにすることになる。だが、リナは大変な悪声であり、トーキー映画には不向きであった。当然ながら試写会は大失敗。そんな映画を公開するわけにはいかないと危機感を抱いたドンとその親友コズモ、そしてキャシーの三人は、映画をミュージカルに作り変えることを思い立つが、リナの声をどうするかが問題となり…
曲だけでなくストーリーも面白いので、見たことのない方は是非一度ご覧になってみてください。
一応、サイレントとトーキーについて説明を。一度自分で書いたのですが、より詳しく解説している記事があったので引かせていただきます。引用続きで申し訳ないですが…
その昔、「活動写真」と呼ばれていた「映画」。その名のとおり、映画は動く写真だった。動く写真に、声を付ける技術などまだなく、映画が誕生した1888年から世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』が公開される1927年までの約40年間、すべての映画はサイレント映画だった。
映画館内に音楽を流したり、フルオーケストラの伴奏付きで上映が行われたり、日本では活動弁士という職業が誕生し、饒舌(じょうぜつ)に映画の内容を解説することもあったが、基本的にサイレント映画から発せられる情報は、視覚からの情報のみ。登場人物のセリフや思いを直接伝える手段としては、挿入字幕(インタータイトル)があったが、それも物語の進行を中断してしまうため、そう頻繁に入れられるわけではなかった。音声を使わずに登場人物の思いをどう伝えるか、いかにして観客を飽きさせないようにするか、そうしたことを突き詰めていくことで、サイレント映画は成熟し芸術的に優れたものへと進化を遂げていった。
サイレントは喜劇王チャールズ・チャップリンなどが有名ですね。一度映画館で観てみたいものです。
話を戻しましょう。
僕はこの映画の主題歌(上に貼ってあるやつ)が大好きです。タップダンスは真似事しかできませんが、雨の日にはよくこの歌を歌っています。歌詞を抜粋してみると
I'm singing in the rain
Just singing in the rain
What a glorious feelin'
I'm happy again
I'm laughing at clouds
So dark up above
The sun's in my heart
And I'm ready for love
何とも素直で素敵な響きがありませんか?憂鬱な気分を優しく吹き飛ばして、幸せな気持ちにさせてくれます。「I'm ready for love」はかっこよすぎるので反則ですが。
「雨に唄えば」には、件のシーン以外にも素敵な場面がたくさんあります。
たとえばこれ。
ドナルド・オコナーの天衣無縫っぷりが最高ですね。これが天才か。この映画の成功は、ケリーとオコナー、二人の天才がいてこそのものだったのでしょう。
長い文章の最後には、賢そうな言葉が似合います。
「雨を嫌うか、雨の中で踊るか、私たちは選択することができる」
では、また次回!
時には昔の話を
優柔不断、という言葉があります。
あなたはどうでしょう?「君って優柔不断だよね」なんて言われたことがありますか?
僕はあります。いろいろな人から。
初めて言われたのは4歳のときです。その日はクリスマスプレゼントを買ってもらうために、家族でトイザらスに行っていました。プレゼントを選ぶにあたって、僕は12月の初旬に届くトイザらスの折込チラシを何回も読み返し(レゴブロックやロボット工作キットなど魅力的な品に溢れていました)、様々な要素を比較して考えに考え抜いた末、当時放送されていた仮面ライダー555(ファイズ)のベルトを買ってもらうことに決めていました。
http://p-bandai.jp/item/item-1000102770
(画像は大人用のプレミアム商品です。即完売したそうな)
ところが、いざトイザらスに着いてびっくり。そこにはチラシに載っていなかった商品、それもカイザのベルトが置いてあったのです!
http://p-bandai.jp/item/item-1000117267
さぁ大変です。なぜなら、僕はファイズもカイザも同じくらい好きなのです。加えて2つの商品の類似性の高さに、何をどう比較すればいいのか単一の方法論しか持っていなかった僕は固まってしまいました。2つの箱をひっくり返しながらしばらく悩んだ末、二者択一を放棄してしまおうかと思って他の売り場を覗いてもみたものの、やはりベルトが欲しいという気持ちは変わりません。
ベルトの前に戻り10分ほど黙って悩んでいたら、父が苛立ちも露わに「○○(僕の名前)は本当に優柔不断だねぇ。家でしっかり考えてから来れば良かったのに」と言ってきました。Ahhhhhhh!!!💢💢💢
結局、現地で見つけたときの衝撃か、はたまた「主人公クラスのサブキャラが好き」という性癖の萌芽によるものか、僕はカイザを選びました。このベルトは今でも捨てずに納戸にしまってあります。
ちなみに、Wikipediaによれば
携帯電話など電子機器をモチーフにした「ファイズドライバー」を始めとする変身ベルトの玩具は、100万本以上を売り上げる大ヒット商品となった。『仮面ライダーW』のダブルドライバーに抜かれるまで仮面ライダーシリーズの変身ベルトとしては最多売上を誇っていた。『仮面ライダー555』 講談社〈テレビマガジン特別編集〉、2004年9月。ISBN 4-06-178431-5。
とのことです。何だか嬉しいですね。
これを書いていたら、久々にファイズを見返したくなりました。あまり仮面ライダーらしくない作品(テーマが重くて暗い上にキャラクターがドンドン死ぬ)で、小さい頃はよく理解できていなかった部分も大きいと思います。TSUTAYAで借りてこようかな。
嫌な記憶は消えないもので、ときおり父のセリフを思い出しては優柔不断について考えています……と続けようと思っていたのですが、昔話だけで終わってしまいそうです。続きはまた今度書きますね。
それでは、今回はこのあたりで。また次回!