デカルトについて(1)


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http://mangalifewin.takeshobo.co.jp/rensai/popute3/popute3-003/18194/

 

死して350年以上が経った今もなお絶大な名声を誇るデカルト。彼の残した影響は人類史でも指折りの大きさでしょう。哲学を学ぶ者も、自然科学を学ぶ者も、デカルト研究を避けて通ることはできません。

彼の著作は概ねわかり易く、また様々な魅力があります。例えば数学における彼の記述は極めて透明です。一切の無駄がなく、余計なものには触れない。目標への強い意識は文章の滑らかな流れを生み、厳格な口調は私たちに安心感さえ与えます。

 

しかし、ここで私たちは一つの疑念を抱かなければなりません。

彼は間違いなく偉大な科学者でありましたが、哲学的に見て、彼は真に偉大だと言えるのでしょうか?

デカルトの名声の根源は「方法」にあります。彼は「方法」によって哲学の力をを科学に及ぼそうとしました。そうすることで学問の基礎に絶対的な確実性を齎そうとしたのです。この哲学と科学を融合する試みに、私たちは驚嘆すると同時に一抹の違和感を覚えざるを得ません。その違和感の正体こそ、僕が書かんとしていることなのです。

 

己の非才を誰よりも知る僕がデカルト批判という大仕事を曲がりなりにもやってみようと思ったのは、某予備校教師が「方法序説」を絶賛しているのを見てのことです。もっと言えば「確実な方法を持つことが大切である」と言うのと、デカルトの言う「方法的認識の重要性」とは全くの別物であろうと思ったからです(方法的認識については改めて書きます)。今思えば稚拙な考えですが、きっかけはそれ自体に意義があるでしょうから。

 

短めといえども普段より消耗しますね…この続きは数日休憩してから投稿しようと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。また次回!