渡る世間に

よく晴れて気持ちのいい日ですね。半袖とカーディガンの組み合わせが快適な気温です。よきよき。

では、挨拶もそこそこに本題へ。

 

 

このエントリは割と素直に書けていて、少しだけ気に入っています。今回は、ここで言及した「本来の自分を取り戻す」について掘り下げてみたいと思います。

 

私たちには、これまでの社会生活を通じて得た自己像、つまり「自分はどんな人間か」というイメージがあります。

このイメージは極めてデリケートなものですが、言語化しづらい(できない)上に主観的評価だけでは不安ですから客観的評価の誘惑が強くなります。それは世間に膨大な数の性格診断が溢れていることや、Twitterで 「#いいねした人にどう思ってるか正直に言う」「 #いいねした人が1冊の本だとしたら最初の1行には何と書いてあるか考える」といったタグが人気を博すことからも言えるでしょう。

本来これを言語化する必要は全くない(むしろ言葉にすることで呪いともなりかねない)のですが、やはりアイデンティティを確立したい、誰かに自分を理解してもらいたいという気持ちは人間の自然な欲求なのだと思います。

とはいえ、"自分らしく"振る舞える環境は(少なくとも日本では)限られています。会社で、家で、学校で、公共交通機関で、親友と、先輩と、教授と、初対面の人と  etc. 場面を構成する様々な要素によって言動は制限を受けます。公私区分とも似ていますが、ニュアンスは異なる気がしますね。

 

その中で、腹を割って話せる友人というのは本当に得難いものです。彼らとの会話では(ちょっと逆説的ですが)制限さえも遊び道具となります。

つまり、僕の言う「本来の自分」とは「自由で幸福なコミュニケーションの中で立ち現れる自己像」のことです。そしてこのコミュニケーションこそが密会であり、ランデブーであり、デートなのです。

 

様々な環境に応じて異なる役割を演じることは、人が人らしく生きる上で不可欠です。「お前はあそこではこう言っていたが、ここではこんなことをやっているじゃないか」と一々言挙げされていては、人生はままなりませんよね。例えば、ある父親が家庭では子供に「大声で叫んではいけないよ」と言いながら、運動会で「〇〇頑張れーーー!!」と叫んだ場合、その妻が「あなたは言行一致という言葉を知らないのか」と指摘したとしても(冗談としてはアリかもしれませんが)まともに取り合われることは無いでしょう。

多様な自己像をコントロールし、自己の生き方を裁くのは本人でなければなりません。そして、異なる社会的文脈の自己像を遮断することはプライバシー権の重要な機能の一つです。(棟居快行『人権論の新構成』)

…プライバシーについては記事を改めさせてください。

 

まとめに入りましょう。

身勝手な考えに見えます(僕もそう思います)が、複雑化した社会で適切に人間関係を営んでいくためには、多様な自己像の使い分けが必要です。その過程ですり減りった本来の自分を取り戻してくれるのは、信頼できる友人とのコミュニーケーション…もっと言ってしまえば実存的な愛の交わりに他ならないのです。

 

掘り下げというより焼き直しみたいになってしまいましたが、それだけ思いが強いということで一つご勘弁ください。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。また次回!