デカルトについて(2)

デカルト批判を始めるにあたっては、まず彼について簡単に振り返ってみるべきでしょう。

Wikipediaによれば

 

ルネ・デカルト(仏: René Descartes、1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。

 

考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88

 

それまでの哲学の伝統を断ち切り、「思惟する自分」という視点を広めることで近代哲学の端緒を開いたわけです。

 

 

ここからは「我思う、ゆえに我あり」という主要命題に話を絞って書いていきます。(以下デカルトの独白という体で記述)

 

Step1 動機

私(デカルト)は学校での学問にほとほと失望した。多くの疑いと誤りに悩まされ、勉学に努めても、ますます自分の無知を知らされたという以外、得るものは無かったように思う。目まぐるしく変化する意見、不確実で結論の得られないような議論などに満足できるはずもない。そこで私は……真の確実性を欲する。

 

Step2 懐疑

この確実性に達するため、私は疑うことを極限まで遂行したいと思う。その先に確実性を見いだせたならば、それは我々のあらゆる認識にとっての堅固な地盤となるに違いない。他者の存在、私の身体の存在、そして数学的真理さえも、私は疑うことができる。悪霊が私をつくり、私が主観的確実性において欺かれるように仕向けているのかもしれないからだ。

もしそうであれば、私は自分を守るすべもなく、真理を見逃してしまうだろう。はたして、私はどのような命題にも、もはや同意できないということが結論なのだろうか?

Step3 主要命題

しかし、私は次のことを認める。あらゆるものが疑われる中であっても、一つのことは確実である。つまり、私が考えるが故に、欺かれていたとしてもそれ故に(※)、私があるということを私は自覚する。(cogito ergo sum)

(※)…私が欺かれるためには、私が存在しなければならない

Step4 出発のために

このようにして、私は確固たる思考の地盤を獲得した。次に、私はいかにしてここから前進するかが問題となる。私は以前にも多くのことを明晰に把握したと信じたのであるが、それでも懐疑の沼に落ち込んでしまった。繰り返すが、私は真の確実性を欲するのである。よって私は、私が悪霊によってつくられているのではないということを確信しなければならない。私が下す判断に対して自信を持つために、である。

Step5 有限/無限

ところで私は、私が自分をつくったのではないことを知っている。さらに、その中で私の有限性を認めるところの無限性の観念が、私の意識と強く結び付けられていることを知る。言い換えれば、私は一の無限的で完全な観念、つまり神の観念を私の中に見出すのである。

Step6 神の存在証明

ここで神の観念を理解する必要がある。私が私を生み出したのではないのと同じく、神の観念をも私は自分で生み出したのではない。そして、原因と結果には全く同様な実在性があらねばならない。つまり、私には有限性や不完全性のあるが故に、無限という観念は神そのものからのみ由来しうるのである。かくして神は存在する。『神のある観念が私の中にあるということだけから、神もまた実在するということが、この上なく明白に証明される』(デカルト著作集7)

Step7 神の善性

しかも、悪=非完全性であろうから、神の本質は悪ではありえない。神は至善であり、欺くことはありえない。したがって私は、私の認識する判然性と明晰性とをいつでも信頼できるのである。

 

 

この思想の歩みを、デカルトは「真理の研究」の中で要約しています。『一個の確固不動の点から出発したのと同様に、この普遍的懐疑から出発して、私は神の認識、あなた自身の認識、ならびに世界に存在するあらゆる物事を導き出そうと思い立ったのです。』