デカルトについて(3)

では、彼の思考過程における様々な問題について検討していきましょう。

 

今回は主要命題「cogito ergo sum」の意義に関しての導入です。

Step3 主要命題
しかし、私は次のことを認める。あらゆるものが疑われる中であっても、一つのことは確実である。つまり、私が考えるが故に、欺かれていたとしてもそれ故に(※)、私があるということを私は自覚する。(cogito ergo sum)

 

まず誤解を避けるために言っておかなければなりませんが、cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)は推論ではありません

推論ならばsum(我あり)を導くための別の真理が必要となりますが、この思想はむしろ根源的、絶対的真理であろうとするからです。ergo(ゆえに)は推論を表すのではなく、簡便のため、単に推論に似た形で表現されたものにすぎません。

「誤解を避けたいなら、表現を変えれば良いのでは?」とお考えになるかもしれません。ごもっともです。

しかし、例えばergoを除いて「cogito, sum(我思う、我あり)」などと言い換えてみたところで、ただの並列だけが残り、意味的な連関が切れてしまいます。「cogitans, sum(我思うとき、我あり)」と言い換えた人もいたようですが、不必要な限定をすることになる上、cogitoとsumの対等性が失われ、もっぱらsumにアクセントが置かれてしまうことになるでしょう。

そして何より、思惟する人が現前的に存在するという事態そのものを感得すること、その表現としてのcogito ergo sumこそが懐疑を打ち破る力を持つのです。これは論理的な理解などではなく、むしろ一つの実存的原体験と言えるかも知れません。

 

思惟がそれ自身において一つの存在として自己を認識すること(= cogito ergo sum)によって生まれる確実性は、いかなる規定からも脱してしまうために絶対のものとなります。前述の通り、これは根源的真理であろうとするからです。

ハリボテの悩み

昨日までの分厚い雲は何処へやら、春らしい素敵な天気ですね。個人的にはもう少し涼しい方が好みですが、ピクニック日和とはこんな日のことを言うのでしょう。 

 

洗い物をしていたら、ふと、裁判員制度について書きたくなりました。

火種はおそらく先日の授業ガイダンスです。「欠席に関する特別措置」の対象として、感染症や怪我と並んで裁判員裁判への出頭が挙げられていることに引っ掛りを感じてそのまま忘れていましたが、脳が関連する記憶を発火させて無意識の内にまとめてくれたようです。バーバラ・オークリーの言う「拡散モード」でしょうか。偉いぞ脳。

さて、開始から9年が経ち、最近はすっかり話題に上らなくなった裁判員制度。もちろん今でも制度は続いており、裁判員裁判は日々行われています。ハフポストによれば

制度施行から2017年2月末までに全国60の地方裁判所(10支部を含む)において、裁判員候補者は約240万人、そのうち55,851人が裁判員を経験し、18,999人が補充裁判員を経験しています。制度開始から今日までの間に7万人以上の市民が裁判員、補充裁判員として刑事裁判の判決に関わったことになります。

 とのことです。武道館のキャパシティが15000人ですから、ざっとその5倍ですか。(分かりにくい例の例)
 

それで、僕の感じた引っ掛かりというのは辞退についてです。

裁判員は国民の義務ですが、学生であれば辞退することが認められています。(裁判員法15条)とはいえ、大学から「授業があるから辞退しろ!」と命令するのは明らかにアウトでしょう。実際、W大では辞退について「参考」として紹介しています。やらしげ。
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学生こそ行ったほうが良いだろうし大学はむしろ推奨するべきなんじゃないか、とか、始めから対象外にしておけば、とか考えた末にたどり着いた先は、やっぱり裁判員制度要らないんじゃないかなってことです。

選任手続についてみると、選定された裁判員候補者のうち、辞退が認められた裁判員候補者の割合(辞退率)は、制度開始時の53.1%から年々上昇しており、2015年は64.9%、2016年は64.7%、2017年(2月末まで)は66.4%とさらなる上昇が見られました。

一方で、質問票等で事前には辞退が認められず、選任手続期日に出席を求められた裁判員候補者の出席率は、制度開始時の83.9%から年々低下しており、2015年は67.5%、2016年は64.8%、2017年(2月末まで)は56.6%となっています。


呼び出しを受けた裁判員候補者は、選任手続期日に出頭しなければならず(裁判員法29条1項)、正当な理由なく出頭しない場合、10万円以下の過料に処される可能性があります(裁判員法112条1号)。もっとも現段階で、出頭しない裁判員候補者が過料に処せられたという発表、報道はありません。 

 

上記の通り、裁判員の辞退についてはかなり広く認められています。しかし、裁判員制度は広く無作為に裁判員を抽出して(法律家でない)一般人の意見をくみ取ることに目的があったのですから、辞退を過剰に認めてしまえば、制度の根幹を崩すことになります。

そもそも「一般人の意見をくみ取る」という目的が曖昧ですし、素人裁判官制というのは、陪審制でも参審制でもない妥協の産物と言わざるを得ません。国民のコンセンサスをしっかりととらないまま通した制度が今まで続いていること自体、驚くべきことでしょう。近い将来にこの制度は見直されると思います。(これ以上踏み込むと愚にもつかない妄言を撒き散らしそうですから、この辺りで退却します。)

 

読み返してみたら、いつにも増して勉強不足丸出しですね…

裁判員制度について考え直してみるきっかけになれば幸いです。

ここまで読んでいただきありがとうございました、また次回!

ロールプレイ・ロールプレイ

おはようごさいます。こうも蒸し蒸しされてしまうと、通学への意思が萎えてしまいますね。豚まんになりそう。夕方には止むそうですが果たして…

 

以前の記事「渡る世間に」では、「本来の自分(自己像)」を自由で幸福なコミュニケーションの中で立ち現れる自己像と規定しました。では、一人でいるとき、特にゲームをしているときメタ的に認知される自己像は何なのでしょう?

 

例えば、自室で一人シューティングゲームをしているとき。キルされて、とっさに普段は使わないような罵言を吐いてしまう人は一定数いますよね。いつもは物腰の穏やかな僕の友人も、CODのプレイ中は放送禁止用語をポンポン言うように荒れてしまいます。

これには大きく分けて3つの理由があると思います。

  1. 社会的抑圧が無くなったため
  2. ゲーマーのロールプレイとして
  3. ストレス発散のため

まず1については、普段は周囲の目があるために罵言を自制しているということです。欺瞞の香りがしますが、社会的制約の大きさはあなたも感じる通りです。これは3の基礎とも言える部分かも知れません。

2は格ゲーの大会などを見るとわかり易いでしょう。いつもはとても優しい方でも勝負となるとキツい煽りをかましたり、暴言を吐いたりしますから。しかし、煽りや暴言はもはや格ゲーの文化として確立されていると言っても過言ではありません。つまりは「お約束」としての行為です。ゲームをプレイする上で、そのジャンルの「お約束」を忠実に遂行することは身内受けしますし、充実感を得ることもできるでしょう。

そして3は、イケナイコト感にひたることで日頃のストレスを発散するということです。防衛機制の「退行」については高校の保健体育で教わったと思いますが、あれと似ているように感じます。また、汚言症とも関連していそうですが、素人がヤイヤイ言って許される領域ではないので立ち入りません。

おそらく、2と3は割と近い関係にあると思います。3のイケナイコト感は「普段と違う自分」を実感することで日々の社会的文脈から逃れる行為ですし、同様にロールプレイも普段と異なる自分を演じる行為です。

 

さて、本題の自己像について…書こうと思ったら、かなり話がズレていますね。まだ考えが十分に進んでいない証拠でしょうか。結論としては、やはり真の自己像は対話の中に現れるもの…ということになりそうですが、もうちょっとしっかり考えてから改めて書きたいと思います。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

また次回!

コーヒー・アイランド

どんよりした天気ですね。高温多湿は嫌いなので、1日涼しいままで暮れてくれればいいのですが…関東も午後からは雨だそうですから、お出かけの際は傘をお忘れなく。

…と今朝書いていたのですが、投稿できないまま日が暮れてしまいました。気温は割と低めで、雨もすぐに止んだので良かったです。電車の中は地獄のように蒸していますが。

 

さて、今日はコーヒーについてです。

端的に言って、僕はコーヒーが大好きです。以前はミルクと砂糖入れまくってようやく飲める程度でしたが、今や立派なコーヒー中毒になってしまいました。

きっかけは一昨年の冬、バターコーヒーなる飲み物を作ってみようと思い立ったことです。その少し前から朝食を抜くようにしていたのですが、「朝昼抜きでバターコーヒーを飲もう!」みたいな限りなく資源ゴミに近い本を読んで、ちょっと気になるなぁ…と思っていたら、いつの間にかグラスフェッドバターとMTCオイルと手動ミルとコーヒー豆が机の上に並んでいました。怪奇。

そんなわけでバターコーヒー生活を一月ほど続けてみたものの、おそらくケトン代謝への切り替えがうまく行かなかったのでしょう。効果を実感できないまま材料が尽きて、結局やめてしまいました。自分が、糖質制限とかできないくらいに意志薄弱なことを忘れていましたね(ヾノ・∀・`)ムリムリ

ところが、この経験は一つの大きなものを残していきました。

コーヒーの美味しさを教えてくれたのです。

新鮮な豆で淹れたコーヒーは、本当にいろいろな味がします。…飲みすぎて舌が壊れたという説は問答無用で棄却します(野獣の眼光)

美味しいコーヒーには酸味や苦味だけでなく甘みやフルーティーな風味がありますし、それらはすなわち豆の個性でもあります。プロが使う、いわゆる官能表現(アップル、シナモン、ストロベリージャム、アーモンド、ラベンダー etc.)にも賛否両論ありますが、個人的にはあった方が面白いと思います。また、自分で新しい表現を考えるのも楽しみの一つでしょう。表現をまとめたフレーバーホイールと呼ばれる図もあります。
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豆についてですが、個人的なオススメはマンデリン(特にクラシックブルボン)とホンダ(今は多分売ってない)です。また、初めて豆を買うときはその店のブレンドで試すのが無難でしょう。店員さんに自分の好みを伝えれば、豆選びを手伝ってくれると思います。

今や我が家の台所には、3種のドリッパーと電動ミル、ペーパーフィルター(100枚入)に水出しアイスコーヒー用のボトルなどが並んでいます。いつの間に…たぶん優しい小人さんが持ってきてくれたんですね!

豆も初めはカルディでちょこちょこ買っていたのですが、怒涛の消費に供給が追いつかなくなり、珈琲豆の専門店で一回に500g〜1kgほど買っていくようになりました。食費と交通費を切り詰めた上で、もらったお小遣いの大半は本と豆に変わっていきます。幸せだなぁ。

常磐珈琲はいいぞ。

 

言いたいことを言って満足したので、今回はここらへんで終わりにしましょう。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。また次回!

幽霊の質問

おはようございます。真夏日だった昨日とは打って変わって、今朝は少し肌寒いですね。昼間も20℃くらいだそうですから、半袖で出歩いて身体を冷やしたりしないようにお気を付けください。

 

風邪については、完治はしていないもののだいぶ良くなりました。のどの腫れが治まって普通に呼吸できるようになったのが1番嬉しいですね。まだ咳は出ますが、今日と明日で治しきれればいいなぁ。

 

長袖1枚で出てきちゃったけど、アウター着てくればよかったなぁと思いながらバスに揺られています。ラッシュのピークを過ぎてはいますが、やはり混み気味。せっかくなので、今日は学校に着くまでに書き上げることにしましょう。

 

気温の上下が激しくて季節感が混乱してくる時期ですが、今日は夏と冬について書きたいと思います。

 

季節の話になると、「夏と冬どっちが好き?」という質問がよくされます。あなたはどっちが好きでしょう?僕は季節に好き嫌いがあまり無い(強いて言えば梅雨が嫌い)のですが、角が立つのも嫌なので「どちらかといえば冬が好き」と答えることにしています。思えば、結構ふしぎな質問ではないでしょうか?用語が曖昧で割と極端な二分法なのでリスキーな面があります。例えとして、先日食堂で耳にした会話を挙げてみると

A「夏と冬どっちが好きなの?」

B「私は夏かなー。寒いの苦手なの」

A「えー、僕は冬だな。スキーが好きだから」

B「へぇー」

…これ以降は覚えていないのですが、彼らはここから話をどう広げたのでしょう?僕にはできそうにありません(書き手の深刻なコンテンツ不足)

この質問の意図としては、大きく分けて次の3つがあると思います。

①自分がその日の気候について思ったことを話すための足掛かりとして

②話が止まってしまったので、急場を凌ぐ話題として

③相手の好みを知るため

個人的には③が多いのですが、あなたはどうでしょうか?実際には他の意図、または上記3つの複合したものによるのかも知れませんが、一般にはやはり①と②の合わせ技が多いと思います。

また、この質問のキモは夏と冬という概念が容易に言い換えられることにあります。先程の例でも冬⇒寒い、冬⇒スキーという言い換えが双方の了解のもとで無意識的に行われています。会話ですから大抵は社会通念に基づいた言い換えになるわけですが、それでも個性は表れるはずです。今度この質問をするときは、相手が夏と冬をどう言い換えるのかに注意してみるのも面白いかもしれません。

 

もうすぐ学校に着きそうですので、今回はここまでとしましょう。

読んでいただきありがとうございました、また次回!

 

デカルトについて(2)

デカルト批判を始めるにあたっては、まず彼について簡単に振り返ってみるべきでしょう。

Wikipediaによれば

 

ルネ・デカルト(仏: René Descartes、1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。

 

考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88

 

それまでの哲学の伝統を断ち切り、「思惟する自分」という視点を広めることで近代哲学の端緒を開いたわけです。

 

 

ここからは「我思う、ゆえに我あり」という主要命題に話を絞って書いていきます。(以下デカルトの独白という体で記述)

 

Step1 動機

私(デカルト)は学校での学問にほとほと失望した。多くの疑いと誤りに悩まされ、勉学に努めても、ますます自分の無知を知らされたという以外、得るものは無かったように思う。目まぐるしく変化する意見、不確実で結論の得られないような議論などに満足できるはずもない。そこで私は……真の確実性を欲する。

 

Step2 懐疑

この確実性に達するため、私は疑うことを極限まで遂行したいと思う。その先に確実性を見いだせたならば、それは我々のあらゆる認識にとっての堅固な地盤となるに違いない。他者の存在、私の身体の存在、そして数学的真理さえも、私は疑うことができる。悪霊が私をつくり、私が主観的確実性において欺かれるように仕向けているのかもしれないからだ。

もしそうであれば、私は自分を守るすべもなく、真理を見逃してしまうだろう。はたして、私はどのような命題にも、もはや同意できないということが結論なのだろうか?

Step3 主要命題

しかし、私は次のことを認める。あらゆるものが疑われる中であっても、一つのことは確実である。つまり、私が考えるが故に、欺かれていたとしてもそれ故に(※)、私があるということを私は自覚する。(cogito ergo sum)

(※)…私が欺かれるためには、私が存在しなければならない

Step4 出発のために

このようにして、私は確固たる思考の地盤を獲得した。次に、私はいかにしてここから前進するかが問題となる。私は以前にも多くのことを明晰に把握したと信じたのであるが、それでも懐疑の沼に落ち込んでしまった。繰り返すが、私は真の確実性を欲するのである。よって私は、私が悪霊によってつくられているのではないということを確信しなければならない。私が下す判断に対して自信を持つために、である。

Step5 有限/無限

ところで私は、私が自分をつくったのではないことを知っている。さらに、その中で私の有限性を認めるところの無限性の観念が、私の意識と強く結び付けられていることを知る。言い換えれば、私は一の無限的で完全な観念、つまり神の観念を私の中に見出すのである。

Step6 神の存在証明

ここで神の観念を理解する必要がある。私が私を生み出したのではないのと同じく、神の観念をも私は自分で生み出したのではない。そして、原因と結果には全く同様な実在性があらねばならない。つまり、私には有限性や不完全性のあるが故に、無限という観念は神そのものからのみ由来しうるのである。かくして神は存在する。『神のある観念が私の中にあるということだけから、神もまた実在するということが、この上なく明白に証明される』(デカルト著作集7)

Step7 神の善性

しかも、悪=非完全性であろうから、神の本質は悪ではありえない。神は至善であり、欺くことはありえない。したがって私は、私の認識する判然性と明晰性とをいつでも信頼できるのである。

 

 

この思想の歩みを、デカルトは「真理の研究」の中で要約しています。『一個の確固不動の点から出発したのと同様に、この普遍的懐疑から出発して、私は神の認識、あなた自身の認識、ならびに世界に存在するあらゆる物事を導き出そうと思い立ったのです。』

風邪っぴきのわがまま2

こんばんは。土曜の夜ですね。元気な方はサタデー・ナイト・フィーバーを楽しんでください。元気じゃない方は音楽を聴いてアニメでも観て、早めに寝ましょう。僕はと言えば、風邪をこじらせかけています…咳が止まらない上に頭痛もしてきたので今日も早寝しますね。

今日は午前中に英語の課題を片付け、午後は高校同期と久々にカラオケに行っていました。今日こそは真面目に書こうと思っていましたが、頭痛が激しくなってきたので今回も超短めになります。後日上げ直すので、よろしくおねがいします。