なにがなんだかわからない

*一気に書いたので、かなり読みづらくなっていると思います。少しずつ書き改めていきます、ご容赦ください。

 

 

こんばんは。お久しぶりです。23時には寝たいので、あと30分しかありません。頑張ります。

 

実際のところ特に書くべきこともないのですが…200日前のエントリを読んだら恥ずかしさで卒倒しそうになったので、久しぶりに文章をひねり出して新旧見比べてみようかと思います。

 

近況報告。本が読めるようになりました。

僕は小学生の頃から本が大好きでした。どこへ出かけるにも最低一冊は本を携えて行きましたし、図書室の貸出冊数ランキングは毎年1位で、2位に倍以上の差をつけることも珍しくありませんでした。(こんなことずっと忘れていたのに、書き始めたら思い出しました。記憶って不思議なものです)

ところが、高校に入ってからぷつりと本を読まなくなりました。単純に読みたい本が無いだけだと思っていましたが、小中では出会わなかったようなハイレベルな本と向き合うことへの恐怖からだったのかもしれません。当時の僕は読もうと思えば何でも読めるだろうという根拠のない自信のもと、模試で数学の時間は(解けないので)爆睡し、国語の時間になると頑張って問題を解くなどのアホムーブをキメていました。高3になってもほとんど勉強しないまま受験を迎え、めでたく浪人することになります。

高校を卒業してからは再び本を手に取るようになり、哲学、特にヤスパースアーレント井筒俊彦デリダが好きになりました。と言っても、彼らの思想が持つ雰囲気が好きだっただけです。彼らが何を言いたいのか、僕にはほとんど理解できていませんでした。本が読めなくなっていたからです。

比喩でも婉曲でもなく、本当に読めなかったのです。彼らは間違いなく優れた哲学者で、片言隻句にもすべてがあるはずです(少なくとも僕はそう信じています)。しかし、僕にはそれを読み取ることができません。一語一語を追い、文意を捉え、思想を把握するという営みが、つまり読むことができなくなっていたのです。目に入れてその意味を理解したはずの言葉が、次の瞬間には跡形もなく消えてしまいます。一文ごとの意味はなんとなく分かっても、それらが連結しないので何が書かれているのかわからない。文字が言葉にならない。

哲学の術語を知らないせいだと思い独習しようとしましたが、もはや参考書すら読むことができません。紙の上を視線がすべり続け、やるせなさを抱えたまま本を閉じる日々が1年半ほど続きました。その間も「自分は本が好き(そのはず)だ」という思いは捨てられず、読めもしない本を買っては棚に詰めて自意識を保っていました。

ところが、この状況は最近になって一変しました。

11月の末、寝る前に本棚から何気なくアーレント『人間の条件』を取り出して開いて見ると、不思議なことに読めるのです。自分でもわけが分かりませんでしたが、とにかく意味がわかる。凄い、なんてわかりやすいんだ、これ以上ないくらい親切に書かれているじゃないか、何でこれが読めなかったんだ…色々な反省をしましたが、あの夜に最も強く感じたことは、本って、なんと面白いものなんだろうという漠然とした、しかし強烈な感情でした。

僕は布団で毛布にくるまりながら、ひとりで有頂天になっていました。本棚から3,4冊の本を引っ掴んで枕元に積み、どきどきしながらページをめくると、やはり読める。勘違いじゃなかった、ふうと息をついてから、夢中になって本を読み進めていき、集中が切れた頃(僕の集中力は3時間で限界を迎えます)眠りに落ちました。

結局、何がひきがねとなったのかはわかりません。しかし、とにかく、あの時から、本が読めるようになったことだけは確かです。

 

なんとか書き終えました。「乱文申し訳ありません」的丸投げは好きではないので、冒頭にも書きましたが、少しずつ加筆修正していこうと思います。では、また次回。

ハリボテの悩み

昨日までの分厚い雲は何処へやら、春らしい素敵な天気ですね。個人的にはもう少し涼しい方が好みですが、ピクニック日和とはこんな日のことを言うのでしょう。 

 

洗い物をしていたら、ふと、裁判員制度について書きたくなりました。

火種はおそらく先日の授業ガイダンスです。「欠席に関する特別措置」の対象として、感染症や怪我と並んで裁判員裁判への出頭が挙げられていることに引っ掛りを感じてそのまま忘れていましたが、脳が関連する記憶を発火させて無意識の内にまとめてくれたようです。バーバラ・オークリーの言う「拡散モード」でしょうか。偉いぞ脳。

さて、開始から9年が経ち、最近はすっかり話題に上らなくなった裁判員制度。もちろん今でも制度は続いており、裁判員裁判は日々行われています。ハフポストによれば

制度施行から2017年2月末までに全国60の地方裁判所(10支部を含む)において、裁判員候補者は約240万人、そのうち55,851人が裁判員を経験し、18,999人が補充裁判員を経験しています。制度開始から今日までの間に7万人以上の市民が裁判員、補充裁判員として刑事裁判の判決に関わったことになります。

 とのことです。武道館のキャパシティが15000人ですから、ざっとその5倍ですか。(分かりにくい例の例)
 

それで、僕の感じた引っ掛かりというのは辞退についてです。

裁判員は国民の義務ですが、学生であれば辞退することが認められています。(裁判員法15条)とはいえ、大学から「授業があるから辞退しろ!」と命令するのは明らかにアウトでしょう。実際、W大では辞退について「参考」として紹介しています。やらしげ。
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学生こそ行ったほうが良いだろうし大学はむしろ推奨するべきなんじゃないか、とか、始めから対象外にしておけば、とか考えた末にたどり着いた先は、やっぱり裁判員制度要らないんじゃないかなってことです。

選任手続についてみると、選定された裁判員候補者のうち、辞退が認められた裁判員候補者の割合(辞退率)は、制度開始時の53.1%から年々上昇しており、2015年は64.9%、2016年は64.7%、2017年(2月末まで)は66.4%とさらなる上昇が見られました。

一方で、質問票等で事前には辞退が認められず、選任手続期日に出席を求められた裁判員候補者の出席率は、制度開始時の83.9%から年々低下しており、2015年は67.5%、2016年は64.8%、2017年(2月末まで)は56.6%となっています。


呼び出しを受けた裁判員候補者は、選任手続期日に出頭しなければならず(裁判員法29条1項)、正当な理由なく出頭しない場合、10万円以下の過料に処される可能性があります(裁判員法112条1号)。もっとも現段階で、出頭しない裁判員候補者が過料に処せられたという発表、報道はありません。 

 

上記の通り、裁判員の辞退についてはかなり広く認められています。しかし、裁判員制度は広く無作為に裁判員を抽出して(法律家でない)一般人の意見をくみ取ることに目的があったのですから、辞退を過剰に認めてしまえば、制度の根幹を崩すことになります。

そもそも「一般人の意見をくみ取る」という目的が曖昧ですし、素人裁判官制というのは、陪審制でも参審制でもない妥協の産物と言わざるを得ません。国民のコンセンサスをしっかりととらないまま通した制度が今まで続いていること自体、驚くべきことでしょう。近い将来にこの制度は見直されると思います。(これ以上踏み込むと愚にもつかない妄言を撒き散らしそうですから、この辺りで退却します。)

 

読み返してみたら、いつにも増して勉強不足丸出しですね…

裁判員制度について考え直してみるきっかけになれば幸いです。

ここまで読んでいただきありがとうございました、また次回!

ロールプレイ・ロールプレイ

おはようごさいます。こうも蒸し蒸しされてしまうと、通学への意思が萎えてしまいますね。豚まんになりそう。夕方には止むそうですが果たして…

 

以前の記事「渡る世間に」では、「本来の自分(自己像)」を自由で幸福なコミュニケーションの中で立ち現れる自己像と規定しました。では、一人でいるとき、特にゲームをしているときメタ的に認知される自己像は何なのでしょう?

 

例えば、自室で一人シューティングゲームをしているとき。キルされて、とっさに普段は使わないような罵言を吐いてしまう人は一定数いますよね。いつもは物腰の穏やかな僕の友人も、CODのプレイ中は放送禁止用語を吐き捨てながら荒ぶっています。

これには大きく分けて3つの理由があると思います。

  1. 社会的抑圧が無くなったため
  2. ゲーマーのロールプレイとして
  3. ストレス発散のため

まず1については、普段は周囲の目があるために罵言を自制しているということです。欺瞞の香りがしますが、社会的制約の大きさはあなたも(おそらく)感じる通りです。これは3の基礎とも言える部分かも知れません。

2は格ゲーの大会などを見るとわかり易いでしょう。いつもはとても優しい方でも勝負となるとキツい煽りをかましたり、暴言を吐いたりしますから。しかし、煽りや暴言はもはや格ゲーの文化として確立されていると言っても過言ではありません。つまりは「お約束」としての行為です。ゲームをプレイする上で、そのジャンルの「お約束」を忠実に遂行することは身内受けしますし、充実感を得ることもできるでしょう。

そして3は、イケナイコト感にひたることで日頃のストレスを発散するということです。防衛機制の「退行」については高校の保健体育で教わったと思いますが、あれと似ているように感じます。また、汚言症とも関連していそうですが、素人がヤイヤイ言って許される領域ではないので立ち入りません。

おそらく、2と3は割と近い関係にあると思います。3のイケナイコト感は「普段と違う自分」を実感することで日々の社会的文脈から逃れる行為ですし、同様にロールプレイも普段と異なる自分を演じる行為です。

 

さて、本題の自己像について…書こうと思ったら、かなり話がズレていますね。まだ考えが十分に進んでいない証拠でしょうか。結論としては、やはり真の自己像は対話の中に現れるもの…ということになりそうですが、もうちょっとしっかり考えてから改めて書きたいと思います。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

また次回!

コーヒー・アイランド

どんよりした天気ですね。高温多湿は嫌いなので、1日涼しいままで暮れてくれればいいのですが…関東も午後からは雨だそうですから、お出かけの際は傘をお忘れなく。

…と今朝書いていたのですが、投稿できないまま日が暮れてしまいました。気温は割と低めで、雨もすぐに止んだので良かったです。電車の中は地獄のように蒸していますが。

 

さて、今日はコーヒーについてです。

端的に言って、僕はコーヒーが大好きです。以前はミルクと砂糖入れまくってようやく飲める程度でしたが、今や立派なコーヒー中毒になってしまいました。

きっかけは一昨年の冬、バターコーヒーなる飲み物を作ってみようと思い立ったことです。その少し前から朝食を抜くようにしていたのですが、「朝昼抜きでバターコーヒーを飲もう!」みたいな限りなく資源ゴミに近い本を読んで、ちょっと気になるなぁ…と思っていたら、いつの間にかグラスフェッドバターとMTCオイルと手動ミルとコーヒー豆が机の上に並んでいました。怪奇。

そんなわけでバターコーヒー生活を一月ほど続けてみたものの、おそらくケトン代謝への切り替えがうまく行かなかったのでしょう。効果を実感できないまま材料が尽きて、結局やめてしまいました。自分が、糖質制限とかできないくらいに意志薄弱なことを忘れていましたね(ヾノ・∀・`)ムリムリ

ところが、この経験は一つの大きなものを残していきました。

コーヒーの美味しさを教えてくれたのです。

新鮮な豆で淹れたコーヒーは、本当にいろいろな味がします。…飲みすぎて舌が壊れたという説は問答無用で棄却します(野獣の眼光)

美味しいコーヒーには酸味や苦味だけでなく甘みやフルーティーな風味がありますし、それらはすなわち豆の個性でもあります。プロが使う、いわゆる官能表現(アップル、シナモン、ストロベリージャム、アーモンド、ラベンダー etc.)にも賛否両論ありますが、個人的にはあった方が面白いと思います。また、自分で新しい表現を考えるのも楽しみの一つでしょう。表現をまとめたフレーバーホイールと呼ばれる図もあります。
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豆についてですが、個人的なオススメはマンデリン(特にクラシックブルボン)とホンダ(今は多分売ってない)です。また、初めて豆を買うときはその店のブレンドで試すのが無難でしょう。店員さんに自分の好みを伝えれば、豆選びを手伝ってくれると思います。

今や我が家の台所には、3種のドリッパーと電動ミル、ペーパーフィルター(100枚入)に水出しアイスコーヒー用のボトルなどが並んでいます。いつの間に…たぶん優しい小人さんが持ってきてくれたんですね!

豆も初めはカルディでちょこちょこ買っていたのですが、怒涛の消費に供給が追いつかなくなり、珈琲豆の専門店で一回に500g〜1kgほど買っていくようになりました。食費と交通費を切り詰めた上で、もらったお小遣いの大半は本と豆に変わっていきます。幸せだなぁ。

常磐珈琲はいいぞ。

 

言いたいことを言って満足したので、今回はここらへんで終わりにしましょう。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。また次回!

幽霊の質問

おはようございます。真夏日だった昨日とは打って変わって、今朝は少し肌寒いですね。昼間も20℃くらいだそうですから、半袖で出歩いて身体を冷やしたりしないようにお気を付けください。

 

風邪については、完治はしていないもののだいぶ良くなりました。のどの腫れが治まって普通に呼吸できるようになったのが1番嬉しいですね。まだ咳は出ますが、今日と明日で治しきれればいいなぁ。

 

長袖1枚で出てきちゃったけど、アウター着てくればよかったなぁと思いながらバスに揺られています。ラッシュのピークを過ぎてはいますが、やはり混み気味。せっかくなので、今日は学校に着くまでに書き上げることにしましょう。

 

気温の上下が激しくて季節感が混乱してくる時期ですが、今日は夏と冬について書きたいと思います。

 

季節の話になると、「夏と冬どっちが好き?」という質問がよくされます。あなたはどっちが好きでしょう?僕は季節に好き嫌いがあまり無い(強いて言えば梅雨が嫌い)のですが、角が立つのも嫌なので「どちらかといえば冬が好き」と答えることにしています。思えば、結構ふしぎな質問ではないでしょうか?曖昧な上に割と極端な二分法なのでリスキーな面があります。例えとして、先日食堂で耳にした会話を挙げてみると

A「夏と冬どっちが好きなの?」

B「私は夏かなー。寒いの苦手なの」

A「えー、僕は冬だな。スキーが好きだから」

B「へぇー」

…これ以降は覚えていないのですが、彼らはここから話をどう広げたのでしょう?僕にはできそうにありません(深刻なコンテンツ不足)

この質問の意図としては、大きく分けて次の3つがあると思います。

①自分がその日の気候について思ったことを話すための足掛かりとして

②話が止まってしまったので、急場を凌ぐ話題として

③相手の好みを知るため

個人的には③が多いのですが、あなたはどうでしょうか?実際には他の意図、または上記3つの複合したものによるのかも知れませんが、一般にはやはり①と②の合わせ技が多いと思います。

また、この質問のキモは夏と冬という概念が容易に言い換えられることにあります。先程の例でも冬⇒寒い、冬⇒スキーという言い換えが双方の了解のもとで無意識的に行われています。会話ですから大抵は社会通念に基づいた言い換えになるわけですが、それでも個性は表れるはずです。今度この質問をするときは、相手が夏と冬をどう言い換えるのかに注意してみるのも面白いかもしれません。

 

もうすぐ学校に着きそうですので、今回はここまでとしましょう。

読んでいただきありがとうございました、また次回!

 

風邪っぴきのわがまま2

こんばんは。土曜の夜ですね。元気な方はサタデー・ナイト・フィーバーを楽しんでください。元気じゃない方は音楽を聴いてアニメでも観て、早めに寝ましょう。僕はと言えば、風邪をこじらせかけています…咳が止まらない上に頭痛もしてきたので今日も早寝しますね。

今日は午前中に英語の課題を片付け、午後は高校同期と久々にカラオケに行っていました。今日こそは真面目に書こうと思っていましたが、頭痛が激しくなってきたので今回も超短めになります。後日上げ直すので、よろしくおねがいします。

風邪っぴきのわがまま

こんばんは。寒暖差にやられ、すっかり風邪をひいてしまいました……咳の合間に鼻水と痰をせっせと生成しています。週末で治しきれればいいのですが。

 

今日は友人の通う都内の大学にお邪魔してきました。インカレのサークルを見学させてもらったのですが、とても面白かったです。友人も生き生きとしていて、良いところに来られたんだなあと嬉しくなりました。インカレというだけで拒否反応を示す方も多い(僕もそうでした)と思いますが、やはり実際に自分の目で見て判断した方が良いでしょう。自分の好きなことに全力で打ち込める環境を見つける上で、妥協するべきではありません。

 

何を書こうか10分ほど悩んでみましたが、すみません、今の僕には長い文章を書く力が残っていません…いずれちゃんとした記事を上げ直すので、今日はここまでとさせてください。

おやすみなさい。また次回!